本当の日本を取り戻すために何をすべきか?インターネット上でさえ報道できない真実を語り、皆さんと何を為すべきか考えていきましょう。

これは困った小早川 心転がり秀秋コロリ

これは困った小早川 心転がり秀秋コロリ

会員学生のみなさん、こんにちは。
本日は土曜日、チャンネルくららでは夕方に私の「バンダと学ぼう武将と鎧」が放映される日です。

で、本日の武将は、小早川秀秋公。
肖像画では頼りなさそうにしていますし・・・
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墓所にある木像も泣きそうな顔で・・・
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ゲームの世界でもこんなキャラ(^_^;)
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 もう「小早川秀秋」と言えば、天下分け目の関ヶ原合戦で、東の徳川家康、西の石田三成と並んで有名な武将ですが、不名誉にも「裏切り者」として有名なのです。

武将としての働きは、目立った物があまりありません。
でも彼は本当に「裏切り者」だったのでしょうか。

年が若かっただけに周りの影響を強く受けた武将だと思いますので、その人的環境と甲冑という2つの面から、彼の個性に迫ってみましょう。(^o^)

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秀吉公が貧しい時から一緒だったおねの方は、我が子のように育て上げた加藤清正、加藤嘉明、福島正則などの各将に慕われていて、この各将は途中参加で武功がないくせに政治的手腕でのみ出世した石田三成公とは、まったくそりが合いませんでした。

そして彼女は、夫の秀吉公に従臣していた徳川家康公を頼りにしていました。

 さて小早川秀秋公はこのおねの方の甥でしたが、血縁者の少ない秀吉は義理の甥である彼を養子にし、本来なら次期豊臣家当主にだってなるかもしれない存在だったのです。

歳の差からも親子以上に年が離れていたため、二人は彼をかなり可愛がっていたようで、彼に当てた手紙にも「五日に一度は爪を切りなさい」と書いていることなど、いろいろと気にかけていた様子が伺えます。

ただ、それも秀吉公と淀君の間にお拾(後の秀頼公)が産まれるまでの話。

秀吉公は当然血のつながった我が子を跡継ぎにしようと考え、それまで同じく後継者候補で秀秋公の従兄弟でもあった秀次公を切腹に追い込んだ上に・・・

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その妻子側室39人が処刑、さらに他家に預かりとなっていた秀次公の家臣7人も切腹となったのです。

秀吉公の従兄弟(秀吉公の母の姉の子)で二代目関白となっていた彼の終わりは、まだ13歳で彼より縁が離れているおねの方の甥の秀秋公には、強烈なインパクトを与えたはず。

当然、その状況を見ては、実子のように可愛がられたとはいえ、引き際を考えなければ義父の秀吉公に殺されると恐れたはずで、あまりのびのびとした十代ではなかったと思います。

そんな経緯のうちに、豊臣家から毛利家に養子に出されそうになったところを、毛利家の分家である小早川隆景が養子にほしいと申し出たのです。

これは、武将としては凡庸な彼を、太閤の意向であるとして断るに断れない毛利本家に迎え入れることを回避するための小早川隆景公の苦肉の策でした。

その後、秀吉公亡き後の大阪城では、秀吉の正妻おねの方(ねね)と、秀吉の子秀頼を生んだ側室淀君の溝が深まっていたと言われています。

ただ、面と向かってケンカしたような記録はありませんので、対立していたのは主にそれぞれを慕う武将や派閥化する女房衆レベルの話であって、本人同士は豊臣家跡継ぎの秀頼公で繋がって、うまくやっていたのではないかと思います。

 但し、正室のおねの方の立場から言うと、秀吉の死後に残された豊臣家は、後発の淀君石田三成公に乗っ取られた形になっていましたので、もう未練を感じない組織になっていたのかもしれません。

一方、彼を養子に引き取った小早川家や、その本家の毛利家にとっては、叔母のおねの方高台院となって尼僧となってしまったことを考えると、人脈も切れて武勲もない''秀秋公''はお荷物扱いだったのかもしれません。

その彼に、秀吉公の懐刀だった石田三成から、西軍への加勢の誘いが来たのです。

地理的要因からこれを断りきれない秀秋公は、その誘いに乗り、そのまま関ヶ原へ。

 天下の豊臣家出身という思いがあったのか、彼は亡き義父の小早川隆景とは全く違う軍旗と家紋を使用し参戦しています。

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↑ こちらが義父の小早川隆景公

当時秀秋公は19歳です。
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東西両陣営の関ヶ原参戦諸将と比べれば、明らかに若輩者です。

しかしながら一万数千人の大群を率いて一番標高の高い松尾山から関ヶ原の戦況を見ていたのですから、まさに鍵を握る存在でした。

彼の甲冑は、現在も靖国神社に保存されています。
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 小鰭(肩口を守る半月型の部品)についたフリル、袖(上腕部の防具)の上に付けた大型の五七の桐紋、佩楯(太股を守るエプロンのような防具)に配置した木下家の沢瀉(おもだか)紋などは、秀吉所用と伝えられる色々威二枚胴具足と共通しており、最近発見された秀吉の弟秀長の甲冑とも共通する部分があります。

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 どうも豊臣家親族はそろいの仕様で注文したようで、秀吉が数少ない血縁者にかけた期待のほどを感じます。

 兜には、本来なら額に付ける鍬形を、大型化して後立としています。

 鍬形はこの時代にはすでに時代遅れのモチーフだったはずですが、秀長の兜にも採用されており、また秀吉影武者の具足と伝えられる複数の甲冑にも使われていて、出自に自身のない秀吉公が、いかに家格に箔を付けたかったかが見えるようでもあります。

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 ただし、こんなに大型化して後頭部に着けているのはこの秀秋公の兜だけです。

またこの兜本体は小星兜(小さな鋲を兜の鉄板の継ぎ目に打ち列べた兜)、鎧も本小札(横長の一枚の鉄板ではなく、親指大の鉄板を横長につづり合わせ塗り固めた胴)であるなど、かなり手の込んだ高価な作りのもので、まさに天下人秀吉の縁者にふさわしい甲冑です。

そして何よりデカい。私が見てきたところ、彼の胴回りは私と同じかもうちょっと太いのです。

あの肖像画から受ける小さなイメージとは逆に、身長はおそらく175〜180cm前後、体格はかなりガッチリで大きめだったはず。

さらに彼の陣羽織はとても大胆なデザインで有名です。

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裾広がりの緋色の羽織の背中には、家紋「違い鎌」を背中いっぱいに入れています。

鮮やかな赤は神社の鳥居に使われているように魔よけの効果があるとされ、あまり知られていませんが胸元には同じく魔よけの鳥居を大きくデザインしています。
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 さらに、背中の裏地には大きく、丸に「永」の文字が入っており、視認性縁起担ぎ、奇抜さ、大胆さと、どれをとっても言うことなしの出で立ちでした。

この体格、大きな後立、そしてこの陣羽織、もう裏切るどころか負ける気がしません。

 しかしながら秀秋公の心は、叔母おねの方の頼りとする東軍の家康側にあったはず。

 その上で諸将の動きが見渡せる松尾山に陣取ったことがアダとなったような気がします。

各武将の開戦時の布陣図では、不本意ながらも組することになった西軍のほうが圧倒的に有利で、その全体が見渡せる場所にいたことが災いして決断のタイミングを誤ったため、後世裏切り者とされてしまったのかも。

タイミングをつかむって、大切ですね。

19歳にして51万石の大大名となった青年武将のその後は、酒におぼれ、関ヶ原の2年後、狂死したと言われています。
元々酒が大好きだったからこその、あの胴回りなのかもしれません。

ただ、こうした歴史をよく知る、MY甲冑で祭りに参加する自前武者の間では、秀秋公に同情する人が多く、結構人気が高いんですよ。

この珍しい家紋や陣羽織を着用している人をよく見かけます。
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何故か女性にも人気。
母性本能をくすぐる武将なのかもしれませんね。(^_^)

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